校歌

校歌

作詞: 小宮豊隆
作曲: 信時 潔

今川と祓郷川と 右左ゆたかにうねり
馬ヶ岳西より迫り 彦山は南に聳ゆ
翠松は校舎を囲み 風立てば琴を奏づる

俗塵を遠く隔てし こゝこそは学問の城
この城の築かれしより 七十の星霜重ね
さまざまの名士を生みて 栄光に歴史輝く

恵まれし環境たゝへ この歴史心にきざみ
雪の日も嵐の朝も たじろがず学にいそしみ
一心不乱事に向へば なにごとかなし得ざるべき

いざ我等心を合せ 高々と理想をかゝげ
惜しからぬ命を賭けて 勇敢に真理を護り
混沌の世界の中に とことはの平和を布かむ


準校歌

作詞: 畑 正世

紫紺(しこん)に匂う英彦(えいけん)の
高嶺(こうれい)霞み春深し
松林(しょうりん)の中(うち)ほの白く
花は胡蝶(こちょう)の夢に咲き
瞳あぐれば学舎(まなびや)に
眉より淡くかかる月

あゝ春来れば草に坐(ざ)し
望み夢みし若人の
数今将(まさ)に二万人
光り輝く園の中(うち)
根強く直(なお)く伸びてゆく
若きぞ我等幸(さち)多し

錦陵(きんりょう)の原秋更けて
あゝ豪放の雲の群
落日赤く染めゆけば
勝鬨(かちどき)挙げし男児等(おのこら)の
血潮も斯(か)くや燃えけんと
空しく昔偲(しの)ぶかな

準校歌をめぐるエピソード

 「準校歌」の作詞者・畑正世は、大正13(1924)年旧制豊津中学校を4年で卒業(いわゆる飛び級。通常は5年で卒業)、慶應義塾大学医学科予科・医学部へ進学した。

 畑正世は卒業の年、本校での学生生活を振り返りながら、万感の思いを込めて「紫紺に匂ふ」で始まる逍遙歌を作詞する。同歌はその後、本校生徒の間で歌い継がれ、「準校歌」として定着していった。

 全国各地又は職場単位で開催される錦陵同窓会のフィナーレでは、昭和32(1957)年制定、小宮豊隆作詞の「校歌」よりも旧制中学時代から続く「準校歌」が好んで歌われる傾向にある。

 かつての本校応援団においても、「準校歌」のリーダーを演ずることが最大の栄誉であり、その演舞は各運動部の部員を奮い立たせた。


応援歌

秋錦陵(あききんりょう)のオリンピア
敵今近しあゝ奮へ(ふるえ)
断魔(だんま)の叫び叫喚(きょうかん)に
意気を示すはこの時ぞ

流汗淋漓(りゅうかんりんり)の灼熱に
鍛へし腕(かいな)は赤銅(しゃくどう)か
騎虎(きこ)の勢(いきおい)一億里
健児の意気は沖天(ちゅうてん)ぞ

英彦山(えいけんざん)の颪風(おろしかぜ)
今川河原の秋の月
鍛へし腕(かいな)を試みて
勝鬨(かちどき)高く挙げんかな
勝鬨高く挙げんかな


西征歌

空白熱の日は燃えて
沸る(たぎる)血潮の響かずや
戦はんかな時は来ぬ
戦い勝てよ我が友よ

忘るる勿れ(なかれ)錦陵の
原(はら)に盟主の群立ちて
筑紫に敵の影絶ちし
覇業の誉(ほまれ)栄(えい)の過去

人去り星は移りつつ
天運時をかざずして
騅(すい)逝かざりし幾年の
悲憤をはらさん時は来ぬ


一口メモ

本校の体育大会では、生徒が赤・白・青の3つのグループに分かれて覇を競います。
このとき、各グループは「準校歌」「応援歌」「西征歌」からひとつずつをテーマ曲として、応援合戦を繰り広げます。